2026年2月6日、AlibabaのAIアシスタント「通義千問(Qwen)」が春節キャンペーンで無料ミルクティーを提供したところ、わずか3時間で100万件を超える注文が殺到し、アプリはクラッシュした。9時間後には注文総数が1,000万件に達し、Qwenは中国App Storeで1位に躍り出た。これはAIエージェントが実際の商取引を自律的に完了させた、世界最大規模の実証実験である。
McKinseyは2025年10月のレポートで、AIエージェントが媒介するコマース市場(Agentic Commerce)が2030年までにグローバルで3〜5兆ドル(約83兆円)に達すると予測した。本稿では、Alibaba・ByteDance・Tencentの三社が展開するAI自律購買基盤の技術アーキテクチャを解析し、この83兆円市場の構造的勝因を検証する。
Qwenの100万件注文アーキテクチャ ── Alibaba統合基盤の全体像
2026年1月15日、AlibabaはQwenアプリに淘宝(Taobao)、Alipay、飛猪(Fliggy)、高徳地図(Amap)を統合し、400以上のコア業務をAIエージェント経由で実行可能にした。この統合により、Qwenは「会話型AI」から「自律実行型AI(Agentic AI)」へと進化した。ユーザーは「近くのミルクティーを注文して」と発話するだけで、店舗検索・メニュー選択・Alipay決済・配達手配までが一気通貫で完了する。
2月6日の春節キャンペーンでは、25元のバウチャーを通じてミルクティーの無料注文を提供した。蜜雪冰城(Mixue)、喜茶(HeyTea)、霸王茶姫(Chagee)、奈雪の茶(Nayuki)、瑞幸珈琲(Luckin Coffee)など30万店舗以上が参加し、3時間で100万件超、9時間で1,000万件の注文を処理した。注文総額は約2.5億元(約36億円)に達したと報じられている。キャンペーン予算は30億元(約430億円)であった。
技術的に注目すべきは、QwenがMixture-of-Experts(MoE)アーキテクチャを採用し、総パラメータ数4,800億のうちトークンあたり350億パラメータのみを活性化する設計である点だ。これにより、大規模な推論能力を維持しながら計算コストを抑制し、100万件規模の同時注文処理を可能にした。ツール呼び出しにはXMLスタイルの関数定義を採用し、決済API・在庫API・配送APIを統一的に呼び出す設計となっている。
ByteDance Doubao ── OS統合型エージェントの野望と壁
ByteDanceのAIアシスタント「豆包(Doubao)」は、2026年1月時点で月間アクティブユーザー(MAU)1億7,200万人を擁し、中国のAIアプリ市場で首位を走る。注目すべきは2025年12月に発表されたZTEとの提携による「Nubia M153」プロトタイプだ。DouaboをOS(オペレーティングシステム)レベルに組み込んだ世界初の「エージェンティックAIスマートフォン」である。
Nubia M153では、Doubaoがアプリを自律的に操作し、レストラン予約・価格比較・写真編集・決済までを一連の動作として実行する。クラウド側のセマンティック推論エンジンとオンデバイスのGUIエージェント「Nebula-GUI」を組み合わせたハイブリッドアーキテクチャが特徴である。
しかし、このOS統合型アプローチは発表直後に深刻な壁に直面した。AlipayがDouaboによる金融サービスへのアクセスを制限し、淘宝もEC機能をブロックしたのである。スーパーアプリ各社にとって、他社のAIエージェントに自社プラットフォームのコントロールを明け渡すことは、ユーザー接点とデータの喪失を意味する。この「エージェント排除問題」は、オープンなエージェント間連携を目指す技術標準の必要性を浮き彫りにした。
一方、抖音(Douyin)上ではDoubaoを活用したコンテンツ・トゥ・コマースのワークフローが展開されている。動画視聴中にバウチャーをタップし、店舗予約や購入をアプリ内で完結させる導線である。ただし、ByteDanceはフードデリバリー事業「抖音外売」を2025年までに事実上縮小しており、コマース基盤としてはAlibaba・Tencentと比較して限定的な立ち位置にある。
Tencent元宝とWeChat ── 13億ユーザー基盤の潜在力
TencentのAIアシスタント「元宝(Yuanbao)」は2024年8月にリリースされ、2026年1月時点のMAUは3,290万人と、QwenやDouaboに大きく後れを取っている。しかし、Tencentが持つ最大の武器はWeChatの13億ユーザー基盤とWeChat Payの決済インフラである。
2025年3月、TencentはYuanbaoをWeChat内に「紅包アシスタント」として試験統合した。画像・ファイルの解析、公式アカウントのコンテンツ要約など、コンテンツ消費型の機能から段階的に展開している。基盤モデル「混元(Hunyuan)」は70兆トークンで事前学習されており、パラメータ規模は数十億から数兆へとスケーリングが進んでいる。
現時点でYuanbaoはミニプログラムの直接呼び出しやEC連携といった完全なエージェンティック機能を実装していない。しかし、WeChat Payとの統合、ミニプログラムを通じた飲食注文・ホテル予約・フライト手配など、クローズドループ型のコマース基盤への発展が計画されている。WeChatエコシステムの圧倒的なリーチを考慮すれば、「後発だが最大のポテンシャル」を持つプレイヤーと位置づけられる。
技術標準の覇権争い ── UCP・MCP・A2Aが描く相互運用の未来
中国のスーパーアプリがクローズドなエコシステム内でエージェンティックコマースを実装する一方、米国では相互運用性を重視したオープン標準の策定が急速に進んでいる。
2026年1月11日、GoogleはNational Retail Federation(NRF)カンファレンスにて「Universal Commerce Protocol(UCP)」を発表した。Shopify、Etsy、Walmart、Target、Mastercard、Visa、Stripeなど20社以上がパートナーとして参画し、商品カタログ・価格・在庫・プロモーション・決済に関する共通言語を定義する。UCPはトランスポート層としてREST API、MCP(Model Context Protocol)、Agent Payments Protocol(AP2)、Agent2Agent(A2A)を併用する設計である。
AnthropicのMCPは「AI版USB-Cポート」と称され、AIモデルとツールの接続を標準化する。決済領域ではVisaがAcceptance MCP Serverを公開し、WorldpayもMCPベースの決済統合仕様を発表した。ツール定義を一度記述すれば異なるAIモデルから共通的に呼び出せるため、マルチエージェント環境でのコマース処理に適している。
中国と米国のアプローチには構造的な差異がある。中国のスーパーアプリは決済(Alipay/WeChat Pay)・物流(菜鳥ネットワーク等)・ECが単一プラットフォーム内に統合されており、エージェントの行動と決済実行の間にフリクションが存在しない。一方、米国はエコシステムが分断されているため、UCP・MCPといった標準プロトコルで橋渡しする必要がある。どちらが優位かは一概に言えないが、展開速度では中国、グローバルな拡張性では米国に構造的な利点がある。
83兆円市場の構造分析 ── 勝者の条件
McKinseyの予測によれば、2030年までにAgentic Commerceは米国だけで最大1兆ドル、グローバルで3〜5兆ドル規模に成長する。同レポートはこの変革をWeb・モバイル革命に匹敵すると位置づけつつ、既存のデジタルインフラ上でAIが稼働するため、過去の革命よりも採用速度が速いと指摘している。
Amazonは既にRufus AIアシスタントを通じて先行している。2025年の実績として、3億人のユーザーが利用し、120億ドルの増分売上を創出した。Rufus利用者の購入完了率は非利用者比60%高く、月間ユーザー数は前年比140%増、インタラクション数は210%増である。「Buy for Me」機能では、Amazon外のECサイトでも自律的に商品を購入する機能を展開している。
しかし、Amazonのアプローチはあくまで自社エコシステム内に閉じている。GoogleがUCPでオープンなプラットフォーム戦略を推進する一方、中国勢はスーパーアプリの統合力で攻める。83兆円市場の勝者の条件は、(1)決済から物流までのエンドツーエンド統合、(2)数億人規模のユーザー基盤、(3)AIモデルの推論精度と実行信頼性、の三要素に集約される。現時点で三要素すべてを高いレベルで満たすのは、AlibabaのQwen+淘宝+Alipay統合基盤のみであり、中国スーパーアプリ型モデルが短期的には最も有力なアーキテクチャであると評価できる。
FAQ
Agentic Commerceとは何か?
AIエージェントが消費者のニーズを予測し、商品検索・比較・価格交渉・決済・配送手配までを自律的に実行するコマース形態である。McKinseyは2030年までにグローバルで3〜5兆ドル規模に成長すると予測している。
中国のスーパーアプリはなぜAgentic Commerceに有利なのか?
WeChat PayやAlipayなどの決済、EC、物流が単一プラットフォーム内に統合されているため、AIエージェントの判断から決済実行までのフリクションが極めて小さい。米国のように複数サービス間の相互運用プロトコルを必要としない点が構造的優位性となる。
Qwenのミルクティーキャンペーンではどのような技術が使われたのか?
Qwenは4,800億パラメータのMixture-of-Experts(MoE)モデルを採用し、トークンあたり350億パラメータのみ活性化する。XMLスタイルのツール呼び出しで決済API・在庫API・配送APIを統一的に呼び出し、3時間で100万件の注文を処理した。
GoogleのUCPとAnthropicのMCPはどう違うのか?
UCPはコマース全体の共通言語(商品・価格・在庫・決済)を定義するアプリケーション層の標準であり、MCPはAIモデルとツールの接続を標準化するインフラ層のプロトコルである。UCPはトランスポート層としてMCPを含む複数方式を採用しており、両者は補完関係にある。
参考文献
- The agentic commerce opportunity — McKinsey, 2025年10月
- China tech giants race to embed AI agents into super apps — CNBC, 2026年1月21日
- Alibaba Takes Major Step to Link Taobao Shopping to Main AI App — Bloomberg, 2026年1月15日
- Alibaba AI App Crashes After 3 Billion Yuan Giveaway — Caixin Global, 2026年2月7日
- Google Announces Universal Commerce Protocol — TechCrunch, 2026年1月11日
- Amazon Rufus AI Shopping Assistant — Fortune, 2025年11月2日
- ByteDance and ZTE Launch Agentic AI Smartphone Prototype — WinBuzzer, 2025年12月1日



