2026年2月4日、米国のクラウド・エンタープライズソフトウェア銘柄が「AIエージェントによる代替」を材料に急落したと報じられた。報道では、Salesforce・ServiceNow・Adobe・Workdayなどが1日で約7%下落し、セクター全体で時価総額が約3000億ドル消失したという。さらに、ソフトウェア企業群の平均フォワードPER(予想利益倍率)が数カ月で約39倍から約21倍へと急収縮したともされる。ここで起きたのは、個別企業の決算悪化ではなく、「SaaSはシート(席)に比例して伸びる」という収益仮説そのものの揺らぎである。
本稿は、Anthropicが2026年1月に発表したAIエージェント製品群「Claude Cowork」を一つの象徴的契機として、シート課金モデルがAI代替に弱い構造理由を分解し、SaaSが生き残るための条件を整理する。個別銘柄の短期的な値動きではなく、収益構造の変化に焦点を当てる。
1. 2026年2月の急落は何を示したのか
論点は単純である。AIエージェントが業務の実行単位を「人」から「タスク」に切り替えた瞬間、SaaSの課金単位であるシートが過剰になる。市場は、SaaSの成長ドライバーが「ユーザー数の増加」ではなく「業務量の増加」へと移る転換点を織り込みにいった。
2026年1月、Anthropicは「Claude Cowork」を公開し、同月末にはウェビナーも実施している。TechCrunchはモバイル/デスクトップ向けアプリの提供を伝え、Fortuneは新製品としての位置づけを報じた。こうしたプロダクトの連続は、エージェントが単なるチャットではなく、社内外のツール連携を通じて業務を“実行する主体”へ進化していることを示す。
セクターの再評価は、必ずしも「AIがすべてのSaaSを駆逐する」という結論を意味しない。むしろ、「どの収益源が置き換えられやすいか」を投資家が選別し始めた、と解釈すべきである。
2. シート課金モデルの強さと、弱点
シート課金(per-seat)は、SaaSの資本市場ストーリーを支えた。理由は3つある。
- 成長の分解が容易: 顧客社数×シート数×単価で説明でき、NRR(ネットリテンション)と相性が良い。
- 予測可能性: 契約期間・更新が明確で、売上が“人員計画”に紐づく。
- 組織拡大と連動: 事業成長に伴う採用が、そのまま座席の増加に繋がる。
しかし弱点も同じ場所にある。課金単位が「人」なので、人が減る(または増えない)局面では、プロダクト価値が上がっても売上が伸びにくい。AIエージェントはこの弱点を突く。エージェント導入の経営目的は、多くの場合「生産性向上」ではなく「人手の代替(採用抑制、外注削減、工数削減)」であるためだ。
3. AIエージェントが生む「シート圧縮」のメカニズム
シート圧縮(seat compression)は、次の連鎖で起きる。
- タスクの実行主体が、人のUI操作から、エージェントのAPI実行へ移る。
- “読む/書く/承認する”のうち、読む・下書き・転記・定型判断が先に自動化される。
- 現場は同じ成果を、少ないシートで回せるようになる(または増員せずに回せる)。
- 更新交渉で「席の削減」と「単価引き下げ」が同時に発生する。
重要なのは、AIエージェントが生む価値が“増分の機能”ではなく“代替の労働”に近い点である。顧客は追加シートを買う理由を失い、むしろ「エージェントが代行するなら、なぜ同じ席数を払うのか」という問いを持つ。
さらに、エージェントは一社のSaaSだけを置き換えるとは限らない。実行基盤(エージェント)を中心に、複数SaaSの表層操作をまとめて自動化し得る。結果として、個別SaaSは“UIの価値”を削られ、システム・オブ・レコードやデータ層、ワークフローの深部でしか差別化できなくなる。
4. 生き残るSaaSの条件: 課金単位の再設計
シート課金が直ちに消滅するわけではない。だが、成長の主戦場は「席の拡大」から「実行量の課金」へ移る可能性が高い。生き残る条件は、課金単位と提供価値の整合を取り直せるかに尽きる。
具体的には以下である。
- システム・オブ・レコード性: 権限、監査、正のデータ更新が製品の中心にある(単なる操作UIではない)。
- ワークフローの深さ: 例外処理・コンプライアンス・決裁など、エージェントが単独では完結しにくい領域を握る。
- 課金の多層化: シート+使用量(API/トランザクション/自動化回数)+成果(回収額、短縮時間)を組み合わせる。
- エージェントを前提としたプロダクト設計: 人間向けUIだけでなく、エージェント向けの安全な実行面(権限境界、ガードレール、監査ログ、レート制御)を提供する。
言い換えれば、SaaSは「人間が触るソフト」から「エージェントが動かす業務インフラ」へ移行する。その移行期において、席を減らされても伸びる“第二のメーター”を持つ企業だけが、評価の下支えを得る。
5. 投資家と事業責任者のためのチェックリスト
市場が恐れているのは、AIが便利になること自体ではない。便利になっても売上が伸びない、という構造である。したがってチェックすべきは、プロダクトのAI機能数ではなく、課金単位の移行が進んでいるかどうかである。
- 更新の実態: 席数は維持されているか、削減が始まっているか。割引率はどう変化したか。
- 新しいメーター: 自動化回数、API実行、ジョブ数などの使用量が、売上にどう接続されているか。
- 推論コストと粗利: 生成AIを内包したとき、コストが売上成長を侵食しない設計になっているか。
- エージェント互換性: 外部エージェント(Claude Cowork等)から使われることを前提に、権限・監査・安全実行を提供できているか。
短期的には、シート圧縮は「導入が進むほど売上が伸びにくい」という逆説を生む。しかし長期的には、課金単位の再設計に成功したSaaSが、より強い収益基盤を持つ可能性もある。2026年2月の急落は、SaaSの終わりではなく、SaaSの“測り方”の終わりを告げた出来事として理解すべきである。
FAQ
シート課金は完全に終わるのか
終わらない。だが、成長の中心から外れる可能性がある。人員増加と連動する領域(営業・サポート等)ほど圧縮が起きやすく、監査・権限・決裁が強い領域では残存しやすい。
AIエージェントはSaaSの売上を必ず減らすのか
必ずではない。売上を支えるメーターがシートしかない場合に減少しやすい。使用量・成果課金へ移行できれば、席数が減っても売上を維持・成長させ得る。
ベンダーは「AI席(デジタル従業員)」を売れば解決するのか
部分的には有効だが、顧客の購買ロジックは「人数」から「処理量/成果」へ移る。AI席という名称に留まると、再び圧縮の対象になり得る。
ユーザー企業はどう交渉すべきか
エージェント導入後の業務量の変化を、更新前に定量化することが重要である。席削減だけでなく、監査ログ、権限境界、API実行の上限、障害時の責任分界など“実行面”の条件を契約に落とし込むべきである。
参考文献
- Claude Cowork Introduction — Anthropic, 2026-01-30
- Anthropic now has a new product called Claude Cowork that acts as an AI agent — Fortune, 2026-01-13
- Anthropic’s Claude Cowork app is now available on mobile and desktop — TechCrunch, 2026-01-26
- $300 Billion Evaporated. The SaaS-Pocalypse Has Begun. — Forbes, 2026-02-04
- AI Agents Are Freaking Out Investors. Here’s Why. — Barron's, 2026-02-XX



