2025年5月、日本の国会はAI推進法(「AI関連技術の研究開発及び活用の促進に関する法律」)を可決し、同年6月4日に施行された。罰則なし、リスク分類なし、禁止行為の指定なし――EUのAI規則とは対極に位置する「イノベーション・ファースト」のアプローチである。首相直轄のAI戦略本部を設置し、5年間で約1兆円の公的支援を投じる。この「第三の道」は機能するのか。本稿では、日本のAI規制の構造、EU・韓国との比較、そして実効性の条件を分析する。

AI推進法の骨格 ― 何が定められたのか

AI推進法は、AIの研究開発と活用を「促進」するための基盤法である。規制法ではなく、促進法であるという点が最大の特徴だ。

法律はAI関連技術を「認知や判断といった人間の知的能力を再現するシステム」と広義に定義し、特定の技術仕様に依存しない設計を取っている。これにより、技術進化に対する法的寿命を確保している。

5つの基本原則(第3条)が掲げられている。既存の国家枠組みとの整合性、基盤技術としてのAI推進、包括的な体系的推進、開発・活用の透明性、そして国際的な規範設定におけるリーダーシップである。

ガバナンス面では、首相を議長とし全閣僚が参加するAI戦略本部が2025年後半に発足した。通常の規制委員会とは異なり、省庁横断でAI政策を統括し、国家投資の方向性を決定し、重大なAIインシデントへの緊急対応を監督する。

「ソフトロー」の実効性 ― 罰則なしで機能するのか

AI推進法には違反に対する明示的な罰則がない。民間企業に課されるのは、政府の施策に「協力する合理的な努力義務」のみである。では、実効性はあるのか。

日本の企業文化を理解していれば、答えはイエスに近い。日本では、省庁からの公式ガイダンスが無視されることは稀である。大企業にとって、非遵守は調達適格性、パートナーシップ、社会的評判、規制当局からの追加的監視に直接影響する。AI推進法は、政府が情報収集・権利侵害事例の分析・非遵守企業の公開を行える権限を定めており、「ネーム・アンド・シェーム」(企業名の公表による社会的制裁)モデルとして機能する。

ただし、この仕組みには前提条件がある。大企業には有効でも、中小企業やスタートアップへの波及力は限定的である。また、海外企業が日本市場でAIサービスを提供する場合のエンフォースメントは法律上不明確である。AI推進法自体が「自発的遵守が不十分な場合には、より強い規制を導入する」可能性を明示的に留保している点も見落とせない。初期のソフトさは、将来のハード化の布石でもある。

EU・韓国との比較 ― 三つの道

AI規制には現在、3つのモデルが併存している。

EU AI規則は、予防原則に基づくリスクベース・アプローチである。AIシステムを4段階(禁止・高リスク・低リスク・対象外)に分類し、高リスクシステムには厳格な事前適合性評価を義務付ける。罰則は最大3,500万ユーロまたは全世界売上高の7%と極めて重い。2024年8月に発効し、2030年まで段階的に実施される。

韓国AI基本法は、2026年1月22日に施行された中間路線である。医療・エネルギー・公共サービスなどの重要分野における「高影響AI」に対して特定の義務を課し、生成AIプロバイダーにはユーザーへのAI利用通知を義務付ける。罰則は最大3,000万ウォン(約300万円)と抑制的だが、是正命令権は持つ。国防・安全保障目的のAIは明示的に適用除外としている。

日本のAI推進法は、規制負荷を最小化し、自発的協力を通じて経済成長と競争力を優先する。リスク分類なし、禁止行為なし、民間義務は非拘束的な努力義務のみ。3者の中で最も軽量なアプローチであり、規制裁定(regulatory arbitrage)による投資誘致を狙う側面もある。

3法に共通するのは、中央政府の調整機関の設置、国際協力の重視、透明性・公平性・説明責任・安全性・人間中心というコア原則への言及である。目指すゴールは同じでも、法的メカニズムの選択は大きく異なる。

1兆円投資計画 ― 十分か

2025年12月23日、高市早苗首相のもとで閣議決定されたAI基本計画は、5年間で約1兆円(約63.4億ドル)の公的支援パッケージを含む。2026年度から開始予定のこの資金は、官民協力による新会社の設立を通じて国内基盤モデルの開発を支援する。

問題は、この投資規模が国際競争において十分かどうかである。米国のBig Tech各社は2026-2027年だけで計5,000億ドル以上のAIインフラ投資を計画している。中国も国家レベルでAI産業に巨額の資金を投じている。日本の1兆円(63億ドル)は、Metaの2026年単年のAI設備投資(約600-650億ドル)にすら及ばない。

スタンフォード大学のAI Index Report 2024では、日本の民間AI投資は世界12位にとどまる。AI基本計画が掲げる「国内計算インフラ、半導体投資、国家研究プログラムの優先」は方向性として正しいが、規模の面で米中との差は埋めがたい。

日本の勝ち筋があるとすれば、規模の競争ではなく、特定領域への集中投資である。製造業・医療・ロボティクスなど、日本が産業基盤を持つ分野でのAI応用に資源を集中し、汎用基盤モデルの開発競争ではなくドメイン特化型の垂直統合を目指す戦略が現実的である。

残された課題 ― 「第三の道」の条件

日本のAI規制が「第三の道」として機能するためには、いくつかの条件が満たされる必要がある。

第一に、データの可用性である。AI開発には大量の高品質データが不可欠だが、日本語データの量と多様性は英語圏に比べて限られている。個人情報保護法との調整も含め、データガバナンスの枠組みが促進法と整合的に運用される必要がある。

第二に、人材である。AI人材の国際競争は激化しており、日本の待遇水準や研究環境は米国・中国に対して不利な立場にある。AI基本計画が人材育成を掲げていても、実際にトップ人材を確保・維持できるかは別の問題である。

第三に、海外企業への執行力である。日本市場でサービスを提供するグローバルAI企業に対して、ソフトローのアプローチがどこまで有効かは未知数である。「ネーム・アンド・シェーム」は日本企業には効くが、海外テック大手には効果が限定的かもしれない。

世界経済フォーラム(WEF)は、日本のアプローチを「信頼と調和に根ざした日本的アプローチ」と評し、「重厚な規制なしに責任あるイノベーションを推進できることを示している」と評価した。この評価が正しいかどうかは、2026年以降の実績が証明することになる。日本のAI規制は、ソフトな形式でありながら、明確な方向性を持っている。問われるのは、その方向性に実行力が伴うかどうかである。

FAQ

日本のAI推進法に罰則はあるのか?

明示的な罰則はない。ただし、政府には情報収集・事例分析・企業名公表の権限があり、日本の企業文化では省庁ガイダンスへの非遵守が調達や評判に直接影響するため、実質的な抑止力を持つとされる。

日本のAI規制はEUのAI規則とどう違うのか?

EUはリスク分類・禁止行為・厳格な罰則(最大売上高7%)を持つ規制法だが、日本は促進法であり、リスク分類も禁止行為も罰則もない。日本は自発的協力と省庁ガイダンスを通じた「ソフトロー」アプローチを取り、EU型の厳格規制でも米国型の放任でもない「第三の道」を志向している。

日本のAI投資1兆円は国際的に見て十分か?

米国Big Techの2026-2027年のAI投資が計5,000億ドル超であることを考えると、1兆円(約63億ドル)は規模で大きく劣る。ただし、日本が汎用モデル開発の規模競争ではなく、製造業・医療・ロボティクスなどのドメイン特化型投資に集中すれば、競争力を発揮できる可能性がある。

AI推進法は海外企業にも適用されるのか?

法的適用範囲は明確ではないが、日本市場でサービスを提供する海外企業も政府ガイダンスの対象となりうる。ただし、ソフトローの実効性は日本企業に比べて限定的と考えられる。

参考文献