パラダイムシフト:訓練から推論へ
2024年末から2025年にかけて、AI業界のスケーリング戦略に根本的な転換が起きた。従来の「より大きなモデルを、より長く訓練する」というアプローチから、「推論時により多くの計算リソースを投入する」テスト・タイム・スケーリング(test-time compute scaling)へとパラダイムが移行している。
この転換を象徴するのが、2024年12月のOpenAI o3の発表である。o3は「System 2」思考と呼ばれる、遅く、慎重で、論理的な計画プロセスを採用した。従来のGPT-4oのような「System 1」的な高速・直感的処理とは異なり、推論時に「より長く考える」ことで、訓練だけでは達成できない推論能力を実現する。
2025年1月のDeepSeek R1の登場は「DeepSeekショック」としてAI業界を震撼させた。わずか560万ドルの訓練コストでOpenAI o1に匹敵する性能を達成し、「より良いAIには数十億ドルのクラスタと膨大な電力消費が必要」というスケーリング則の神話を打ち砕いた。DeepSeek R1は1クエリあたり10〜100倍のトークンを生成することでテスト・タイム・スケーリングを実証し、推論コストはOpenAIの同等モデルの20〜50分の1で済むことを示した。
主要Reasoning Modelの技術的特徴とコスト構造
2025年4月にOpenAIが発表したo3およびo4-miniは、同社史上「最も賢いモデル」と位置づけられる。特にo4-miniは、コスト効率に最適化された小型モデルでありながら、AIME 2025数学コンテストでpass@1精度99.5%(Python interpreter使用時は100%)を達成した。
API価格は大幅に引き下げられた。o3は入力100万トークンあたり0.40ドル、出力100万トークンあたり1.60ドルとなり、GPT-4.1 miniと同等の価格帯となった。o4-miniは入力100万トークンあたり1.10ドル、出力100万トークンあたり4.40ドルである。ただし、推論トークン(reasoning tokens)はAPIでは不可視だが、コンテキストウィンドウを占有し、出力トークンとして課金される点に注意が必要である。
Anthropicも2025年2月にClaude 3.7 Sonnetで「extended thinking」機能を導入した。開発者は「thinking budget」を設定でき、最大128Kトークンまでの思考時間を指定できる。AIME 2024では64,000トークンの思考予算で80.0%の精度を達成し、SWE-Benchではスコアが49%から62%以上に向上した。τ-Bench Retail(顧客サービス・推薦タスク)ではo1を上回る81.2%を記録している。
DeepSeek R1は671Bパラメータのうち37Bのみをアクティブ化するMixture of Experts(MoE)アーキテクチャを採用し、FP8(8ビット浮動小数点)量子化でメモリ使用量を75%削減しながら精度を維持する。INT8量子化では「ほぼ完璧な精度回復」、INT4でも97%以上のベンチマーク性能を維持し、最大4倍の推論高速化を実現する。2025年2月27〜28日の24時間で、DeepSeekは平均226.75ノード(1,814 GPU)を稼働させ、1日のコストは約87,072ドルながら、545%のコスト利益率を達成した。
精度・レイテンシ・コストのトレードオフ
2026年に向けて、業界ではReasoning-firstモデルとInstruction-followingモデルの明確な分離が進んでいる。Instruction-followingモデルは速度、コスト効率、予測可能な動作を優先する。Reasoning-firstモデルはレイテンシとコンピュートを犠牲にして、より深い分析、自己検証、複雑なタスクでの正確性向上を追求する。
典型的な課題として、Reasoningモデルでは「Time-to-First-Token(TTFT)」が遅くなり、より多くのトークン(思考プロセス)を出力するため、体感レイテンシが増加する。長いコンテキスト入力はすべてのモデルでレイテンシを増加させる。実例として、Llama 3.2 Instruct(1B)とLlama 3.1 Instruct(70B)は単純なプロンプトに対して同じ正解を返すが、大型モデルは7倍のコストと15倍のレイテンシを要する。
コスト面では、プレミアムティアと予算ティアの間で100万トークンあたりの価格が200倍以上異なる。過去2年間で推論コストは280分の1に下落したが、利用量の爆発的増加により企業のAI支出総額は増加している。Deloitteの分析によれば、推論需要は2026年までに訓練需要の118倍に達し、2030年には全AIコンピュートの75%を占め、7兆ドルのインフラ投資を牽引すると予測される。
エンタープライズ実装のための設計指針
2026年のエンタープライズAI実装において、「すべてのワークロードにReasoning-firstモデルをデフォルト使用する」ことは典型的なアンチパターンとなっている。より効果的なアプローチは階層型モデルルーティングである。
推奨される設計原則は以下の通りである。第一に、階層型スタックの構築として、「tiny local → small cloud → medium → large」の4段階を用意し、デフォルトでは小型モデルを使用して必要に応じてエスカレーションする。第二に、ルーティングの実装として、軽量な分類器またはヒューリスティクスで大部分のリクエストを小型モデルに振り分ける。第三に、出力トークンの削減として、多くのワークロードでは推論の短縮がモデルサイズ縮小よりもコスト削減効果が大きい。
レイテンシ要件も重要な考慮事項である。製造環境、石油掘削プラットフォーム、自律システムなどリアルタイムAIワークロードでは、10ミリ秒以下の応答時間が求められ、クラウドベース処理の固有遅延は許容できない。このような場合はエッジでのInstruction-followingモデル展開が必須となる。
2026年のエンタープライズ向け推奨モデルとしては、DeepSeek-V3、Qwen3-235B-A22B、GLM-4.5が挙げられる。これらは推論深度、マルチモーダル性能、レイテンシ、ライセンス、展開オプション、コストで大きく異なるため、「このプロンプト、このレイテンシ予算、このコスト制約、このエコシステムに最適なモデル」を選択するアプローチが求められる。普遍的な「最良のモデル」は存在しない。
2026年以降の展望:推論エラからエージェントエラへ
専門家の予測によれば、2026年はLLMのベンチマーク性能向上の大部分が、訓練やコアモデルよりも、ツーリングの改善と推論時スケーリングからもたらされる。推論時スケーリングとは、訓練後にLLMが回答を生成する際により多くの時間とコストをかけることを意味する。
2026年に向けて「Reasoning Era」は「Agentic Era」へと進化すると予測されている。o3のようなモデルが持つ計画能力と自己修正能力は、真に自律的なAIエージェントに必要な欠けたピースである。実際、2026年現在、推論能力はGPT-5、Claude Sonnet/Opus 4、Gemini 3などのフラッグシップモデルに組み込まれており、別個の「reasoningモデル」を選択する必要はなくなりつつある。
インフラ投資の観点では、2025年半ばの「Inference Wars」を経て、戦略的優位性は「誰が最大のモデルを訓練できるか」から「誰が最も賢いモデルを最低レイテンシで提供できるか」へと移行した。OpenAIの2024年推論支出は23億ドルに達し、これはGPT-4の訓練コストの15倍に相当する。この傾向は2026年以降さらに加速すると見込まれる。
FAQ
テスト・タイム・スケーリングと従来のスケーリングの違いは?
従来のスケーリングはモデルのパラメータ数や訓練データ量を増やすアプローチ。テスト・タイム・スケーリングは推論時(ユーザーがクエリを送信した時点)により多くの計算リソースを投入し、モデルに「より長く考える」時間を与える手法である。同じモデルでも推論予算を増やすことで精度が向上する。
Reasoning Modelはどのようなタスクに適しているか?
複雑な数学問題、コード生成・デバッグ、多段階の論理推論、自己検証が必要なタスクに適している。一方、単純なQ&A、定型文生成、リアルタイム応答が必要なタスクではInstruction-followingモデルの方がコスト効率が良い。
推論コストを最適化するための実践的なアプローチは?
階層型モデルルーティングの導入、thinking budgetの適切な設定、キャッシュの活用(OpenAIでは同一プロンプトのキャッシュで75%割引)、量子化モデルの利用などが有効である。多くの場合、推論を短縮する方がモデルサイズを縮小するよりもコスト削減効果が大きい。
DeepSeek R1が低コストを実現できた理由は?
MoE(Mixture of Experts)アーキテクチャで671Bパラメータのうち37Bのみをアクティブ化、FP8量子化でメモリ使用量75%削減、H100より安価なH800 GPUの活用、効率的な分散推論システムなどの技術的最適化の組み合わせによる。
参考文献
- Introducing OpenAI o3 and o4-mini — OpenAI, 2025年4月
- The State of LLM Reasoning Model Inference — Sebastian Raschka, 2025年
- A Survey of Test-Time Compute: From Intuitive Inference to Deliberate Reasoning — arXiv, 2025年1月
- DeepSeek's Low Inference Cost Explained: MoE & Strategy — IntuitionLabs, 2025年
- The AI infrastructure reckoning: Optimizing compute strategy in the age of inference economics — Deloitte, 2026年
- Claude's extended thinking — Anthropic, 2025年2月
- Extended thinking tips — Anthropic Documentation
- OpenAI API Pricing — OpenAI



