2026年、科学研究の現場が根本から変わりつつある。仮説生成から実験設計、実行、分析までを人工知能(AI)エージェントが自律的に行う「セルフドライビングラボラトリー(Self-Driving Laboratory、SDL)」が、物理・化学・生物学の各分野で本格稼働を始めた。従来10〜20年を要した新素材の発見が1〜2年に短縮され、創薬では「AIファースト」設計の候補分子が初めて臨床試験段階に入ろうとしている。本稿では、この研究自動化革命の最前線を解説し、科学発見プロセスの未来像を展望する。
セルフドライビングラボとは何か
セルフドライビングラボ(SDL)とは、AIと実験室ロボットを統合し、科学研究の「設計(Design)→ 合成(Make)→ 試験(Test)→ 分析(Analyze)」というDMTAサイクルを自動で回す閉ループシステムである。人間の研究者が介在せずとも、AIが仮説を立て、ロボットが実験を実行し、得られたデータをAIが解析して次の仮説を更新する。この連続的なフィードバックループにより、従来の手動実験では数ヶ月かかる最適化プロセスが数日〜数週間に圧縮される。
英国王立協会が2025年7月に発表したレビュー論文によると、今日の最先端SDLは「仮説生成から実験設計、実験実行、データ分析、結論導出、仮説更新」までほぼ全ての科学的方法論を自動化している。さらに「クラウドラボ」と呼ばれるサブスクリプション型の遠隔アクセスサービスも登場し、高価な実験設備を持たない研究者でもAI駆動の実験を実施できる「科学の民主化」が始まっている。
材料科学における自動発見の実例
材料科学分野では、SDLの導入によりデータ取得速度が従来比10倍に向上した事例が報告されている。2025年7月にScienceDailyが報じたところによれば、ある研究チームは静的な従来手法からリアルタイムの動的化学実験へ切り替えることで、SDLによるデータ収集量を10倍に増やすことに成功した。
米国アルゴンヌ国立研究所のナノスケール材料センターに設置された「Polybot」は、この分野の代表的なシステムである。2025年2月に発表された研究では、Polybotが合成ロボット、加工ロボット、搬送ロボットの3台と機械学習ソフトウェアを連携させ、電子ポリマー薄膜の導電性と欠陥を同時に最適化することに成功した。この結果、従来の最高水準に匹敵する導電性を持つ薄膜を効率的に生成できるようになった。電子ポリマーはプラスチックの柔軟性と金属の機能性を兼ね備えた素材であり、ウェアラブルデバイスやプリンタブルエレクトロニクス、次世代エネルギー貯蔵システムへの応用が期待されている。
ローレンス・バークレー国立研究所の「A-Lab」は、計算科学による材料スクリーニングと実験合成のギャップを埋めるために設計された自律研究所である。2023年のNature誌掲載論文では、17日間の連続稼働で58の標的化合物から41種類の新規化合物を合成したと報告された。2026年2月には、バークレー研究所主導で「FORUM-AI(Foundation Models Orchestrating Reasoning Agents to Uncover Materials Advances and Insights)」プロジェクトが始動し、AIと次期スーパーコンピュータLuxを活用して材料発見のタイムラインをさらに短縮することを目指している。
AIエージェントによる仮説生成と自動発見
SDLの頭脳となるのが、大規模言語モデル(LLM)を搭載したマルチエージェントシステムである。2025年3月にJournal of the American Chemical Society誌に発表された「ChemAgents」は、Llama-3.1-70Bモデルを基盤とする階層型マルチエージェントシステムで、複雑な多段階実験を最小限の人間介入で実行できる。2026年1月にPhys.orgが報じた「MARS(Multi-Agent Research System)」は、19のLLMエージェントと16の専門ツールを統合し、ロボット実験を含む閉ループ材料発見を実現している。
Google DeepMindの「AlphaEvolve」は、Geminiモデルと進化的探索を組み合わせたエージェントで、コードベースの「仮説」を自律的に提案・検証・改良する。2025年には、1969年以来破られていなかった行列乗算アルゴリズムの記録を更新する48回乗算アルゴリズムを発見し、AIによる数学的発見の可能性を示した。
OpenAIのラボ実験では、GPT-5が遺伝子編集プロトコルを最適化し、効率を79倍向上させた事例も報告されている。また「AI Scientist-v2」システムは、仮説策定から仮想実験の実行、査読付きワークショップ論文の執筆までを完全にAIエージェントで実施した。
創薬・生命科学への波及
創薬分野では、Google DeepMindとIsomorphic Labsが開発した「AlphaFold 3」が「デジタルファースト」の創薬パイプラインを実現しつつある。2024年5月にリリースされたAlphaFold 3は、タンパク質、DNA、RNA、低分子間の相互作用を原子レベルの精度で予測する。Isomorphic Labsは、Eli LillyやNovartisと総額30億ドル超の戦略的提携を結び、従来「創薬困難」とされていたがん関連標的や神経変性疾患の治療薬開発を進めている。2026年初頭にはJohnson & Johnsonも加わり、タンパク質間相互作用阻害剤の設計にAlphaFold 3を活用する深層統合パートナーシップを発表した。専門家らは、2026年末までにAI設計分子が初めてPhase I臨床試験に入ると予測している。
Eric Schmidt氏の支援を受けるスタートアップ「FutureHouse」は、2025年5月にマルチエージェントシステム「Robin」による初の科学的発見を発表した。Robinは、Crow(文献レビュー)、Falcon(分子評価)、Finch(データ分析)という3つのエージェントを統合し、乾燥型加齢黄斑変性症の新規治療薬候補としてRho-kinase阻害剤リパスジルを同定した。構想から論文提出までわずか2.5ヶ月という短期間で成し遂げられたこの成果は、AIエージェントによるエンドツーエンドの科学発見が現実のものとなったことを示している。
課題と今後の展望
SDLとAIエージェントの普及には課題も残る。第一に、AIが生成した仮説の検証可能性と科学的妥当性の担保である。LLMの訓練データに起因するバイアスが仮説に反映されるリスクがあり、人間研究者によるレビュー体制の構築が求められる。第二に、実験の再現性と透明性の確保である。A-Labの2023年論文に対しては、新規材料の発見を疑問視する批判的分析が2024年に発表され、自律合成システムの成果検証の難しさが浮き彫りになった。
しかし、2026年のトレンドとして「AIアドバイザー」モデルの台頭が注目される。2025年12月にPhys.orgが報じたこのアプローチは、AIのデータ分析能力と人間の意思決定を適応的に組み合わせ、人間とAIの最適な協働体制を模索するものである。完全自律ではなく、人間とAIのハイブリッド型研究スタイルが主流になる可能性がある。
2026年初頭に稼働開始予定の次期スーパーコンピュータ「Lux」は、米国エネルギー省初の「科学向けAIファクトリー」として設計され、エネルギー、材料、医薬、先進製造の各分野で発見プロセスを加速させることが期待されている。セルフドライビングラボとAIエージェントの組み合わせは、科学研究のあり方そのものを変革する転換点に差し掛かっている。
FAQ
セルフドライビングラボ(SDL)とは何ですか?
AIと実験室ロボットを統合し、仮説生成から実験実行、データ分析までを自動で行う閉ループ型の研究システムである。人間の介入を最小限に抑えながら、科学的発見プロセスを高速化する。
SDLはどの分野で使われていますか?
材料科学、化学、創薬、生命科学が主な応用分野である。電子ポリマーや無機化合物の合成、創薬候補分子の設計などで実用化が進んでいる。
AIが仮説を生成することに問題はないのですか?
LLMの訓練データに起因するバイアスが仮説に反映されるリスクがある。そのため、人間研究者によるレビュー体制と、AI生成仮説の検証プロセスが重要となる。
従来の研究と比べてどれくらい速くなりますか?
材料発見では従来10〜20年かかっていたプロセスが1〜2年に短縮される事例がある。データ取得速度も従来比10倍に達したシステムが報告されている。
日本でもセルフドライビングラボは導入されていますか?
日本でも理化学研究所や産業技術総合研究所などで自動化実験システムの研究開発が進められている。材料科学やバイオテクノロジー分野での導入事例が増加傾向にある。
参考文献
- Autonomous 'self-driving' laboratories: a review of technology and policy implications — Royal Society Open Science, 2025年7月
- This AI-powered lab runs itself—and discovers new materials 10x faster — ScienceDaily, 2025年7月
- Self-driving lab transforms materials discovery — Argonne National Laboratory, 2025年
- An autonomous laboratory for the accelerated synthesis of novel materials — Nature, 2023年12月
- A Multiagent-Driven Robotic AI Chemist Enabling Autonomous Chemical Research On Demand — Journal of the American Chemical Society, 2025年3月
- Demonstrating end-to-end scientific discovery with Robin: a multi-agent system — FutureHouse, 2025年5月
- Rational drug design with AlphaFold 3 — Isomorphic Labs, 2024年
- 'AI advisor' helps self-driving labs share control in creation of next-generation materials — Phys.org, 2025年12月



