2030年のAI経済圏を議論する際、論点は「AI市場がどこまで伸びるか」だけでは不十分である。産業構造を実際に変えるのは、資本支出(CAPEX)IT運用支出(OPEX)労働支出物理オートメーション科学R&Dが同時に動くかどうかである。

本稿は、2024年9月4日公表のIDC支出見通し、PwCが示す2030年GDP寄与見積もり、2025年5月20日に公表されたGoldman Sachsのヒューマノイド推計、NBERの発明生産性実証をベースラインに置く。その上で、「1.8兆ドル市場」「IT支出の26%がエージェンティックAI」「労働支出転換のROI 3-5倍」は2030年シナリオ仮説として明示的に扱い、観測値と推計値を混同しない構成で整理する。

ベースライン: 2030年に向かう3つの確定トレンド

第一に市場規模である。Grand View Researchの2025年9月10日公表資料では、世界AI市場は2030年に約1.81兆ドル、CAGR 37.3%と推計されている。市場推計は機関差が大きいが、2030年に「1兆ドル超級」へ到達する方向性は共通している。

第二にマクロ経済寄与である。PwCの分析は、AIが2030年に世界経済へ最大15.7兆ドルを上乗せしうると示している。ここで重要なのは、付加価値の多くが「新需要創出」と「個別化された製品・サービス」から生まれる点である。

第三に企業支出の実装フェーズ移行である。IDCは2024年9月4日、世界のAI・生成AI支出が2028年に6,320億ドルへ拡大し、5年間CAGR 29.0%と公表した。これはPoC中心から本番予算への移行を示す指標であり、2030年議論の前提条件となる。

2030年シナリオA: IT支出の26%・1.3兆ドルをエージェンティックAIが占める条件

本稿のシナリオAでは、2030年時点でAI関連IT支出を約1.3兆ドル、うちエージェンティックAI比率を26%(約3,380億ドル)と置く。これは公開済みのIDC 2028年値(6,320億ドル)を起点に、2029-2030年の継続成長を仮定した政策・産業シナリオ値である。

この26%は、単なる「AIアプリ利用料」ではなく、次の4階層を含む。

  • 推論・オーケストレーション基盤(モデル、ルーティング、観測)
  • 業務実行エージェント(CS、調達、法務、開発、運用)
  • 安全性・監査・権限制御(ガードレール、監査証跡、評価)
  • 人間協調レイヤ(承認、例外処理、責任分界)

したがって、シェアが26%に達するかどうかはモデル性能よりも、企業が「運用責任を伴う自律実行」をどこまで許容するかで決まる。技術問題と同時に、監査制度設計の問題である。

2030年シナリオB: 労働支出26%転換とROI 3-5倍の経済学

WEFは2025年1月に、2030年までに雇用の22%が再編され、労働者スキルの39%が変化すると公表している。これは「AIが仕事を消す」よりも、「支出が職務束から再配分される」ことを示す。

本稿のシナリオBでいう「労働支出26%転換」とは、総人件費の26%を削減する意味ではない。定義は以下である。

  • 定型判断・文書生成・検索・照合・一次分析の工数をAI側へ移す
  • 人間側は例外処理、責任判断、顧客関係、最終意思決定へ再配分する
  • 削減した時間を売上創出業務またはR&Dへ再投資する

ROIが3-5倍になる条件は、(1)導入範囲を業務単位で閉じない、(2)人員削減ではなく再配置で回す、(3)品質損失コストを同時管理する、の3点である。逆に、単発自動化で終わる企業はROIが1倍未満に収束しやすい。ここでの3-5倍は、公開統計の確定値ではなく、上記条件が成立した場合の実装シナリオ帯である。

ヒューマノイド10万台、マルチモーダル個別化、科学R&D 10-20%向上

Goldman Sachs(2025年5月20日)は、ヒューマノイドロボット出荷が2030年に25万台へ達する可能性を示した。これを踏まえると、10万台配備は強気ではなく中位レンジの目標値である。意味は「人手不足補完」ではなく、物流・製造・保守の稼働設計がソフトウェア定義化する点にある。

マルチモーダルAIは、音声・画像・テキスト・業務ログを統合し、顧客ごとの意思決定をリアルタイム最適化する。PwCが示すAIの経済寄与でも、個別化による需要創出は主要ドライバーである。従って、個別化はUX改善ではなく、需要側GDP寄与の中心メカニズムである。

科学R&Dでは、Nature掲載研究(2024年11月13日公開)で、新材料発見における発明生産性の有意な向上が確認されている。産業横断で同等の効果が直ちに再現されるとは限らないが、保守的に見ても2030年までにR&D生産性10-20%改善は現実的な政策レンジである。

AGI未達でも産業基盤は再編される

2030年までにAGIが達成されるかは、依然として未確定である。Stanford AI Index 2025が示す通り、モデル能力は急伸している一方、信頼性・推論安定性・運用安全性には未解決課題が残る。したがって、産業政策として合理的なのは「AGI前提」ではなく「AGI未達でも回る設計」である。

実務上の含意は明確である。2030年競争で差がつくのは、

  • AI支出を全社P/Lで再設計できる企業
  • 労働支出の再配分を組織設計とセットで実装できる企業
  • 監査可能なエージェント運用基盤を先に作る企業

である。AGIの有無は重要だが、2030年産業再編の一次要因ではない。一次要因は、すでに始まっている支出構造転換の速度差である。

FAQ

1.8兆ドルと15.7兆ドルは同じ指標か?

異なる指標である。1.8兆ドルはAI市場規模(売上・支出の市場値)であり、15.7兆ドルはAIが生む経済全体への付加価値寄与(GDPインパクト)である。

IT支出26%は確定予測か?

確定値ではない。本稿ではIDCの公開値を基点にした2030年シナリオ仮説として扱っている。実現可否は、技術性能よりも企業の運用・監査実装に依存する。

労働支出26%転換は大量解雇を意味するか?

意味しない。工数の再配分を指す。効果が最大化されるのは、人員削減ではなく高付加価値業務への再配置が成立した場合である。

AGIが来なければAI投資は失敗するか?

その前提は誤りである。AGI未達でも、業務自動化、個別化、R&D高速化、ロボティクス連携で十分に産業再編は進む。

参考文献