2026年のエンタープライズAI投資は、モデル精度の競争から、実装オーナーシップと測定設計の競争へと重心が移った。Deloitteの2025年調査では、M&A実務の意思決定者の86%が生成AIをワークフローへ統合済みである一方、投資対効果(ROI)に「有意なポジティブ影響」を報告した層は39%にとどまる。さらにDeloitteの別調査では、AI投資を増やした企業は91%に達するが、ROIを「有意な水準で測定できる」企業は26%という結果が示されている。実装率と価値化率の差は、技術不足よりもガバナンス不足で説明できる局面である。
本稿は、このギャップを「80%実装・35%ROI問題」と定義し、原因を(1)実行オーナー不在、(2)ガバナンス責任の分散、(3)測定モデルの曖昧さに分解する。あわせて、NIST AI RMF 1.0の構造(Govern / Map / Measure / Manage)を実務KPIへ接続し、6か月単位で回せる改善設計を提示する。
1. なぜ「技術の問題」ではなく「経営設計の問題」なのか
多くの企業では、導入判断は迅速化したが、成果責任の定義が後追いになっている。結果として、PoCの本数は増えても、どの案件がP&Lへ効いたかを説明できない。DeloitteのROI調査で示された「投資増加91%」と「測定可能26%」の差は、この構造を定量的に示す。
ここで重要なのは、ROI未達が「モデル性能不足」を意味しない点である。実務では、次のような設計不備が損益化を止める主要因となる。
- 案件オーナーがIT部門に偏在し、事業部の収益責任と接続されない
- 利用部門ごとに評価軸が異なり、全社比較ができない
- 導入KPI(利用率、生成件数)と経営KPI(粗利率、回収期間)が分断される
すなわち、問題の本体は「AIを作れるか」ではなく、「AI投資を経営管理できるか」である。
2. 80%実装・35%ROI問題の分解: オーナーシップ、ガバナンス、測定
本稿では、Deloitteの実装86%・有意ROI39%を起点に、実務上の価値化境界を「35%前後」とみなす。これは、厳格に測定可能な層(26%)と、体感的な有意効果を報告する層(39%)の間に、統制と測定の空白領域が存在するためである。
この空白領域は、次の3層で発生する。
- 実行オーナーシップ層: 予算オーナーと業務オーナーが分離し、停止判断が遅れる
- ガバナンス層: データ品質、変更管理、監査証跡の責任者が不明瞭で、運用が属人化する
- 測定層: ROI定義が案件ごとに異なり、横断ポートフォリオで比較不能になる
DeloitteのM&A調査で「データ品質(43%)」と「ガバナンス(38%)」が主要障壁に挙がる事実は、技術実装後の運用設計がボトルネックであることを示す。
3. 構造的対策: 90日で実装できるガバナンス最小構成
対策は大規模組織再編ではなく、責任分界と計測定義の先行実装である。NIST AI RMF 1.0の4機能を、以下のように短期運用へ落とし込む。
- Govern(1-30日): 案件ごとに「収益責任者」「運用責任者」「リスク責任者」を明文化し、未設定案件は着手不可とする
- Map(1-45日): ユースケースを「直接収益」「コスト削減」「リスク削減」に分類し、評価軸を固定する
- Measure(15-75日): 先行KPIと遅行KPIを分離し、週次と月次で観測する
- Manage(30-90日): 継続・縮小・停止のゲート条件を定量化し、例外承認を経営会議へ限定する
この設計の目的は、成功案件を増やすこと以上に、失敗案件を早く止めることである。AI投資の収益性は、平均成功率ではなく、損失案件の滞留時間で大きく変わる。
4. 測定モデル再設計: ROIを「単一値」から「三層指標」へ
2026年の実務では、ROIを単一の金額指標として扱うと、短期回収案件だけが残り、戦略案件が消える。そこで、次の三層で管理する。
- 財務ROI: 売上増分、原価削減、外注費削減
- オペレーションROI: リードタイム、再作業率、一次解決率
- ガバナンスROI: 監査対応時間、インシデント率、モデル変更の再現性
運用上は、各案件に三層KPIを1つずつ必須設定し、四半期ごとに「継続率」と「停止率」を同時にレビューする。これにより、導入件数の多寡ではなく、ポートフォリオ全体の資本効率でAI投資を管理できる。結論として、2026年の収益性ギャップは技術限界ではなく、ガバナンスと測定設計の実装遅延が主因である。
FAQ
Q1. 「35%ROI問題」は厳密な単一統計か。
単一統計ではない。Deloitteの「有意ROI 39%」と「ROI測定可能 26%」の間にある実務的な価値化境界を、経営判断上の閾値として35%前後と定義している。
Q2. まず最初に着手すべき項目は何か。
案件ごとの責任分界の明文化である。収益責任者・運用責任者・リスク責任者が未確定の案件は、KPI設計以前に実行停止すべきである。
Q3. 技術刷新よりガバナンス整備を優先してよいのか。
優先してよい。実装済み案件が多い組織ほど、追加モデル導入よりも運用統制と測定定義の標準化の方が短期で収益改善につながる。
Q4. ROIが出ない案件はすべて停止すべきか。
一律停止は適切でない。短期財務ROIが低くても、オペレーションROIやガバナンスROIが改善している案件は、次期収益化の基盤となるため段階継続が妥当である。
参考文献
- Deloitte Press Release: 2025 M&A Trends Survey — Deloitte, 2025-11-18
- AI ROI paradox: rising investment and elusive returns — Deloitte, 2025
- Artificial Intelligence Risk Management Framework (AI RMF 1.0) — NIST, 2023-01-26



